特別な祝日・聖人の祝い



B年 2012年

特別な祝日

聖人の祝い




神の母マリアの祭日
主の公現の祭日
主の洗礼の祭日
洗礼者ヨハネの誕生の祝日
聖母の被昇天の祭日



                神の母聖マリア 2012-1-1  B グイノ・ジェラール神父

            民数記6,22-27   ガラテヤ4,4-7   ルカ2,16-21

   マリアと共に一つの年が終わって、新しい年が始まります。 神の永遠のうちに自分の人生を置くために、私たちは聖マリアの保護の下にここに集まっています。 消え去る時に意味と値打ちを与えるために、この唯一のやり方しかないと、私たちはよく知っています。 キリストと一致している私たちの人生の全ての瞬間が、永遠の価値、永遠の値打ちを取ります。 また、新しい年の思いがけない出来ことにも関わらず、私たちがイエスに忠実に従うために、マリアは控えめに私たちを守って下さると知っています。 ですから、私たちに対する神の愛の計画を日ごとに受け留めるのを マリアと共に学びましょう。

  昔、元旦はイエスの割礼の祝日と名付けていました。 第二教会会議からこの日は、「神の母マリアの祭日」となりました。 確かにご托身の神秘、救いの神秘がマリアを通して実現されました。 人間の体で生きることを選ぶことによって神は、私たちの希望、疲れ、身体的な限界、私たちの死さえも分かち合うように選びました。罪を除いて、マリアのお蔭でイエスは全てにおいて私たちの人間の条件を背負いました。 そして、神の救いの計画によって、十字架上でイエスは私たち皆を自分の母に委ねました。
こうして、マリアを通して私たちはキリストの兄弟姉妹と父なる神の子供になりました。

  教会はマリアについて豊かな教えを与えます。 マリアは信仰に対して、愛徳に対して、キリストと一致する最も完璧な模範です。 福音は度々マリアについて語っています。 反対に新約聖書においては、ガラテヤ人への手紙しかマリアについて述べていません。 しかし、パウロは彼女の名前を言わずに一回だけ語りました。 神の子であるイエスはマリアの子となることで、私たちが生きている神の子供たちに成ったとパウロは説明しています。

  福音史家とパウロは、マリアについてあまり話さない理由は二つあります。 最初の理由は、イエスの時代の文化と聖書全体の内にあります。 つまりユダヤ人の妻の役割は、ただ妻そして目立たない母親であるという使命です。 そのために福音の中で、マリアの役割は目立たないのです。

  第二の理由は、初代教会の歴史の中に見つけることが出来ます。 中東アジアの世界では、親戚関係と血縁を非常に大切にする考え方が今も続いています。例えば、イラクのサダーム・フセイン、リビアのカダフィー、そしてシリアのアサド大統領などが、自分の親戚の人だけに政治の中で大きな責任ある地位を与えていました。 初代教会のある信者がイエスの親戚であったので、教会の中で特別な立場を要求していました。 このようにイエスの従兄弟(いとこ)であったヤコブはキリストの弟子でなかったにも関わらず、強引にエルサレムの共同体の責任者となって、ペトロと同じ権威を持つことを望みました。 福音史家たちは特にパウロはヤコブと絶えず敵対しながら、キリストを信じるには親戚関係の特権が全くないことを強く納得しょうとしました。 「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」 「わたしの母、わたしの兄弟とは神の言葉を聞いてそれを行う人です」(マタイ12,48 マルコ3,33 ルカ8,21)と福音史家たちは、わざとイエスに言わせます。 誰であろうと皆分け隔てなく、特権なしに、イエスの母、信仰の兄弟姉妹となるように召されているのです。

  その為に神の母であるマリアの役割は、初代教会に書かれた書物の中であまり出て来ません。 2世紀の終わり位、特に3世紀になってからキリスト者がマリアに対する信心を自由に表現することが出来るようになりました。 その後、教会の教父たちが信仰生活の中でのマリアの重大な役割を発見して、細かく長く説明しました。 今日の祭日は、マリアの母性はただ歴史的な出来事だけでなくて、先ず、神学的な出来事であることを思い起こさせます。 事実マリアは全ての人の模範であり、神の民の母でもあります。 更に、マリアは惜しみなく神の救いの計画を歓迎する教会の模範です。

  マリアが自分の心の中で、神の言葉と自分の人生の全ての出来事を思い巡らしていたことを、ルカは何回も繰り返して証ししました。 私たちも自分自身の人生の出来事の中にある神の現存とその摂理のしるしを見つけるために、マリアに倣って神の言葉の光を受けながら、自分の人生の出来事を思い巡らしましょう。 この新しい年はどのようなものになるかは誰も分かりません。 しかし、神は毎日私たちの傍におられる命の約束を私たちに与えて下さいます。 私たちがマリアの子供であるからこそ、勿論マリアは母として一緒に毎日私たちを伴うでしょう。 イエスとマリアの眼差しの下で、そしてまた兄弟姉妹の眼差しの前で、この新しい年の一年の間、私たちは神の子であることを証ししましょう。 そしてまた私たちは、神の言葉を聞き、信仰のうちにそれを実現する神の愛する子供であることを喜びを持って証ししましょう(ルカ8,11)。アーメン。



                 主の御公現の祭日 B年 グイノ・ジェラール神父

         イザヤ6016  エフェソ、2356  マタイ 2112

   占星術の学者たちは、3つの印を通して、神に出会いました。 それは星と預言と生まれたばかりの幼子です。 神へと導く最初の印は星です。 神はいつも創造物を通して私たちを導きます。 第2の印は預言です。 神のみ言葉は私たちの足どりの光であり、命の光です。 神を啓示する第3の印は幼子です。 神を知るには、幼子の心がなければなりません。 「幼子のようにならなければ、決して天の国に入れない。」(マタイ18,3

  今から一つの話しをしましょう。 ある夜、天使たちは大阪教区の3人の神父たちの前で、合唱し始めました。 「約束されたように、救い主が戻ってきました。 しかし、彼は栄光の内に来られるよりも、むしろ、密かに、新たに生まれるのを望まれました。 だから、あなたがたは、彼が武庫之荘の教会にある、祭壇の下のボール箱に寝ているのを見つけるでしょう。」と。 フランス人、ベルギー人、イタリヤ人という3人の神父は、自分たちの贈り物を差し出そうと、生まれたばかりのイエスのもとに集まりました。

  天使が示した場所に来て、フランス人のパリ外国宣教会の神父は、すばやくヨゼフとマリアに挨拶をし、贈り物を幼いイエスの前に置きました。 そうして、彼は「主よ、私はパンと葡萄酒とチーズを持ってきました。 とても栄養のあるものです。 その上、分け合って食べる事ができます。 もしあなたが食卓の回りに皆といっしょに集まれば、食卓を共にすることで、彼らに、救いの良いおとづれの薬を飲ませるのが、どれほどやさしくなるか、お分かりになるでしょう。」と言いました。 ベルギ−人の神父であるスクート会の修道士は、ヨゼフにもマリアにも気付かず、イエスに自分の国の特産品である、ビール、ポテト・フリッツ、やチョコレートを差し出しました。 彼はイエスに、「これらのものは全部、人類が飲んだり、食べたり、楽しんだりしている人類の象徴です。 私は芽キャベツやチシャも持って来ました。 これらはちょっと味が苦いのですが、あなたは人生が苦いことでいっぱいだと言う事を知らなければ・・・毎日、沢山の思い掛けない出来事や忍びがたい困難が起こりますから」と説明しました。

  最後にイエズス会のイタリヤ人の神父が近寄って、ヨゼフとマリアに丁寧に挨拶をしました。 イエスの前で、彼は深々と頭を下げて、つぶやきました。 「主よ、あなたは人がパンや葡萄酒や芽キャベツだけで生きないことはよくご存知です。 ですから私は霊的な食べ物も持ってきました。 これは、まず、カトリック教会の教理の本です。 次に、この前の公会議のテキストもどうぞ。 特に、教皇様の祝福をうけたこのメダルを大切にしなさい。 また一番最近に出版された聖書も持って来ました。 これで、あなたが大きくなられた時、私たちに納得させるべきなことや どうしても言わなければならない事をよく理解するためにがとても役に立つでしょう。」

  イエズス会の神父はヨゼフとマリアに向かって「あなた方のお子さんが大きくなって学校へ行く年になられた時、行くべき学校の申込用紙を置かせてください。 私たちイエズス会は、日本でとても評判のいい学校をいくつか持っています。」といいました。 彼ら3人の神父は贈り物の自慢をして、自分たちのところへ帰りました。

  3人の神父が帰っていった時、一人の少年が近寄って、イエスを抱き上げて、額に接吻しました。 それから一言も言わずに帰っていきました。 この話を読んで、もし私達がイエスに何かを差し上げるように勧めるなら、何をしたら良いか自問しましょう。 イエスは人となって生まれることを選ばれました。 このことはつまり、私たち一人ひとりを愛されたいと望んでいるということです。 私達が病気の時、訪れて来る人は いつも何か小さい贈物(お見舞)を持ってきます。 時がたつにつれて、私たちはもらったものを忘れてしまいます。 しかし、受けた訪問と慰めを思い出します。 このように私たちの記憶は贈物についてはすぐに忘れますが、友愛、慰め、分かち合いの時の貴重な記憶は、長く残ります。

  そこで、今日、長続きする贈物として、私たちの心にある全ての愛をイエスに捧げましょう。 そうしてイエスに申し上げましょう。 「主よ、私はあなたを愛するために、ここに来ました。 他の人々や私のために、あなたにしていただきたい事を言うためではありません。 私の両手は空っぽです。 というのは私自身があなたの贈物だからです。 私の弱さ、欠点、あなたのみ旨を行ないたい望みなどを持っているありのままの私を、あなたに差し上げる事を私は選びました。 私はまた祈りの黄金と、信仰の乳香と、希望の没薬をあなたに捧げます。 あなたが私を愛してくださり、私もあなたを愛していますから、あなたに近寄るのを私は全然恐れていません。

  もしイエスへの礼拝が、私たちの存在の全て、私たちの持ち物全てを差し出す助けにならなければ、この礼拝は偽りです。 人がイエスに差し出すことの出来る最も美しい贈りものは自分自身を差し出すことです。日曜日以外にも、しばしばこの教会へ祈りに来る習慣をつくりましょう。 沈黙の中で、イエスの前に跪き、私たちの日常生活や私たちの友愛、忠実さを捧げましょう。 そしてなによりもまず、私たちに対するイエスの尽きる事のない愛をより深く感じるために、私たちの胸にイエスを抱きしめるのをためらわないように。 アーメン。



            主の洗礼   201219日  B年  グイノ・ジェラール神父

       イザヤ 55111節    ヨハネの手紙T、5章T−9節    マルコ1711

   イエスの洗礼に関するマルコの話は新約聖書の中で一番短いです。 キリストの洗礼についてマルコは細かい事を少ししか話しませんが、肝心の事を打ち明けています。 特にイエスは神が世の救いの為に遣わされた方です。 「あなたは私の愛する子、私の心に適うもの」という皆が聞いた神の言葉を通して、イエスは自分の使命を受け取りました。 きっとイエスは かつて神が宣言された旧約聖書の中の次の箇所を思い出して、考えています。 それは「見よ、私の僕、私が支える者を。 私が選び、喜び迎える者を。 彼の上に私の霊を置いた。」という言葉です。(イザヤ421節)

   救い主イエスは全く罪に染まっていません。 それなら、どうして彼は洗礼を受けるのでしょうか? それは回心し、新しい生き方で再生しようと望んでいる沢山の罪人と、イエスが一体化することを私達に示すためです。 聖ヨハネは自分の手紙の中で、イエスが水と血と聖霊の証しを持って来られたと説明しています。(1ヨハネの手紙5章7,8節) それは、神のみ言葉であるイエスが、本当に私達に似た人間である事を、私たちに納得させるためだと聖ヨハネは言っています。 十字架上におけるイエスの死と同様に、流された彼の血は、キリストが本当の人間であった事を証ししています。 聖霊はキリストの洗礼と死と復活に立ち会いました。 それはイエスが本当に神の子であることを表明する為です。 「証をするのは3者で、霊と水と血です。 証しするために、この3者は一致しています」(1ヨハネの手紙5章7,8節)とヨハネは言っています。

  イエスの洗礼はひとつの誕生の目に見える印です。 赤ん坊が生まれる時、叫び声を上げます。 それは生命を呼吸する叫びです。 しかし、生まれたばかりの子供はお母さんの血で覆われているので、血を洗い落とすために水の中に入れなければなりません。 同様に、人間は死ぬ時に、最後の叫びのうちに人間存在である、自分の命の息を引き取り、心臓は血の循環がさまたげられて、止まります。 その時、尊敬をもって家族は死者の体を洗います。 このように誕生の時の水と、死の時の水は、人間の命の目に見える印と象徴です。 洗礼の水には、同じ意義があります。 洗礼の水の中で、罪人である人間は新しい命に再び生まれ変わる為に死にます。 彼は神の子となり、永遠の命である聖霊の息吹きを受けます。 受洗者はこの時から、自分のうちに、この永遠の命を保つ為に、どうしてもキリストの御体と御血をいただかなければなりません。 丁度、乳呑児が生き続けるためにお母さんの体から必要な日常の糧を受けているように。

   キリストの誕生と洗礼と死は、イエスが本当に人間である事を示しています。 同様にイエスの使命、言葉、行いはイエスが本当に私達の救い主、私達の神である事を証ししています。 イエスはイザヤが預言した方であり、また、無償で私達を誘われる方です。 「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。 銀を持たない者も来るがよい」(イザヤ551節)と。 聖ヨハネの証によると、イエスは預言者イザヤの言葉を使って、神殿の境内で、わざと、次のように宣言しました。 「渇いている人は誰でも、私のところに来て飲みなさい。 私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人のうちから生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ73738節)

  洗礼の日、イエスは御父から声をかけられます。 彼は父から人間である召し出しと救い主である召し出しを受けます。 神である人間となったイエスは、受けた洗礼によって、人類と一体化します。 反対に、洗礼によって、私達はイエスと同一視され、神の子になります。 しかしながら、キリストが受け、私達が受けた洗礼は、私達が神から生まれ、聖霊に満たされて、神の愛する子であるという3つの事を一致して証しします。 イエスのように、私達の洗礼の日、私達は神の子となる召し出しを御父から受けました。 私達はまた、周りの人たちに、御父の愛について、そしてまた、私達を通してイエスが実現する救いについて、証しすると言う美しい使命を受けました。

   今日の朗読を全部、ゆっくりと読んで、黙想すれば、私達の洗礼の意味が少しよく分かるようになるでしょう。 これらの朗読から、私達のキリスト者としての召し出しについて真面目に考えましょう。 と言うのは、自分の洗礼によって、私達はキリストの使命の協力者なのですから・・・聖霊の働きにもっともっと自分を委ねましょう。 この聖霊は私達が本当に神の子である事を示すために、生涯にわたって、私達と共にいますから。 というのは、洗礼を受けたものは、イエスのように、人生のあらゆる瞬間を、父なる神との一致のうちに生きることを学ぶために、そして父の愛のうちに子として居続けるために、聖霊によって導かれるままであるべきだからです。  アーメン。



        洗礼者ヨハネの誕生(祭日) 2012-6-24   B    グイノ・ジェラール神父

        イザヤ49,1-6    使徒13,22-26   ルカ 1,57-6680

   教会は3つの誕生を祝っています。 それらはイエス(1224日)とその母マリア(98日)と洗礼者ヨハネの誕生日(624日)です。 母マリアの誕生のずっと前から、即ち4世紀から洗礼者ヨハネの誕生日を記念していました。 異邦教の2つの太陽の祭りの替わりにコンスタンティヌス皇帝は、ヨハネとイエスの誕生の記念日を624日と1224日に決定しました。 この日付は 歴史的な意味よりも典礼的な意味を持っています。 しかしこの日付は、ヨハネの誕生はイエスの誕生に6か月先だっている、と告げた大天使ガブリエルの言葉に基づいています。

  「あの方は栄え、私は衰えねばならない」(ヨハネ3,30)と、洗礼者ヨハネは言いました。 従って、初めて日が短くなる時に ヨハネが生まれ、初めて日が長くなる時に イエスが生まれます。昔から1224日は光の祝い日でした。ローマ時代には、異邦人は1224日に太陽の帰りを祝っていましたが、私たちは世の光であるキリストの到来を祝っています。 一年の中で一番短い夜である624日に人々は、夜に対する太陽の勝利を祝っていました。 現在でもフランスとカナダでは、「洗礼者ヨハネの火の祭り」が行われています。 丁度、昔の異邦人のように 燃えている十字架の形をしている草の束の周りで キリソト者が踊っています。 しかし彼らは太陽の勝利ではなく、洗礼者ヨハネの誕生を祝っています。 この「洗礼者ヨハネの火の祭り」は、人々と動物に 保護と癒しと清めを保障します。 今日、洗礼者ヨハネの火の周りで踊ることによって、キリスト者はキリストが地上にもたらしに来た聖霊の火を祝っています。 洗礼者ヨハネは 次にように言ったからです。 「その方は、聖霊と火で洗礼を授ける」(ルカ3,36)。

   とにかく神の賜物である、洗礼者ヨハネとイエスの誕生は喜びの泉であり、また、幸せと祝福を与える記念日として祝っています。 母の胎内から聖霊で満たされたヨハネの使命とは、神から全てを受け止める事と、私たちに救いの喜びを与える事です。 自分の貧しい生き方によって、洗礼者ヨハネは神から全てを受け止めることを皆に示します。 救い主の到来を準備するために神から選ばれたヨハネは、自分の誕生の日から救いの喜びを人々に伝えました。

   洗礼者ヨハネの誕生は、自分の家族をはじめ近所の人々に大きな喜びを与えました。2000年後、神に感謝しながら私たちはその喜びに与っているのです。 今日、この教会の中にいる全ての両親が生涯に渡って自分たちの子供の誕生の為に喜ぶことが出来るでしょう。

   福音の始めにヨハネは次のように説明します。 「ヨハネは光ではなく、光について証しするために来た。 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(ヨハネ1,8-9)。 洗礼者ヨハネと同じように、私たちが神から選ばれ 聖霊で満たされたのは、神の眼差しの下で成長するためです。 私たちの使命もヨハネの使命と同じです。それはキリストの証人となって自分の周りに救いの喜びを巻き散らすことです。

   エリザベットとザカリアの子は、父親の名を受けずにヨハネと呼ばれました。 この名は「神が憐れみを与える」という意味です。 これこそ ヨハネの使命です 。ヨハネの誕生によって、神は子供が出来なかった二人に対する自分の憐れみを示しました。 一方、エリザベットが 聖霊で満たされているし、他方、ザカリアは 話すことも聞くこともできるのです。 次に預言者によって約束された救いを宣言し、また救い主の到来を準備するヨハネによって、神は全ての人にご自分の深い憐れみを示します。 神は憐れみ深い方と宣言することは喜びと歓喜の泉です。

   今から後、私たちを通して神が世界の人々にご自分の憐れみを与えようとします。 その為に洗礼者ヨハネと同じように私たちは神から全てを頂き、そして感謝のうちに神に全てを返すのです。 神の眼差しの下で成長する事と、永遠に残る実を結ぶ事が出来るように、一番の方法は祈りと感謝の内に神から全てを頂き、そして全てを捧げることです。 これこそ キリスト者の使命です。「聖なる父、全能永遠の神、いつどこでも、賛美と感謝を捧げることは 誠に尊い大切な務めです。」(ミサ叙唱) 洗礼者ヨハネと共に神の眼差しの下で、そして救い主キリストの光の内に感謝しながら喜びの道を歩みましょう。 アーメン。

                                 

              聖母の被昇天      2012815    グイノ・ジェラール神父

       黙示録11,19 12,1-6 10  1コリント15,20-27  ルカ1,39-56

    毎年 同じ祝い日のために、同じ聖書の朗読に基づいて、説教をする事は司祭たちにとっては至難の業です。 勿論、何年か前にした説教の内容を信徒たちが忘れていると思った上で、司祭たちがこの説教をもう一度使う事は出来ます。 しかし、それはあまり好ましいことではありません。 なぜかと言うと、神の言葉は信徒たちにいつも新しい教えをもたらしますし、共同体全体も何年間の間に変わります。 新しいぶどう酒を古い皮袋に入れてはいけません。 「新しいぶどう酒は 新しい皮袋に入れるものです」(マルコ2,22)。 ですから、自分に委ねられたキリスト者たちに、役に立つ新しい教えを与えるために 聖霊が自分に新しい考えと工夫を吹き込むように、司祭は祈らなければなりません。

    ですから兄弟姉妹の皆さん、今日、神が私の声を通してあなた方に伝えたい事に耳をよく傾けてください。 マリアは私たちによく似ている女性です。 しかし、彼女は神への奉仕のために 全生涯を尽くしました。 マリアは修道院の中に入らずに、この世に残って 神の声を聞く注意深い人でした。 家事の仕事をしながら彼女は ずっと神のことを考えました。 ナザレの泉で水を汲む時、或いは洗濯する時、マリアは 人々の渇きを癒し、物を清める冷たい水のために神に感謝していました。 ヨゼフとイエスに囲まれた状態で マリアは家族的な生活や色々の心配りや食事の喜びのために 神に感謝していました。 日が傾くと、疲れた体に神が与える憩いのために また一日中 受けた恵みのために 更に明日必ず来る様々な恵みを願いながら、マリアは神に 感謝していました。 ようやく自由になった時、きっと夜の沈黙のうちに、祈るためにマリアは起きたに違いありません。 このように、朝から夜まで、また 夜から朝まで、終わりのない祈りによって マリアは 神の内に完全に没頭していました。

    マリアを真似るのは、到底無理だと ある人々は考えているかも知れません。 残念ですが大勢の人が、このような祈りの生活を送っているのです。 何かを行いながら神のことを考える事は、難しい努力を要求しません。 ただ、人が自分のうちにある神の現存に注意を集中する事だけで充分です。 私たちが、神に近い者となればなるほど、祈りが私たちの心から楽に湧き出ます。 この状態を生きると 私たちのすべての行いが「神聖な行い」となり、神に栄光を与え、そして周りに居る人々の上に、天の祝福を引き寄せます。 すべてのキリスト者は、神との親密な一致の内に生きるように召されています。 洗礼の秘跡は、私たちの心に天の国を置きました。 マリアと同様に 私たちの心は天使たちの歌声と聖霊の歓喜で満たされています。 確かに、神の親密な現存に 私たちの心を開くなら、あっという間に、涸れることのない泉のように 新鮮な祈りがその心の奥深くから吹き出すでしょう。

    聖体拝領によって私たちは、マリアのようにイエスを自分の内にいただき、命の芽生えとしてイエスを身ごもっているのです。 私たちがキリストを世界の人々に伝えるために、どうしてもイエスが私たちの内に成長しなければなりません。 聖体の恵みを前にして、やはり私たちは マリアの言葉を繰り返す事しか出来ません。 「私の魂は 主をあがめ、私の霊は 救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1,46-47)。 マリアは 身ごもっているイエスによって 神が実現しようとする救いを考えながら、絶え間なく罪人のために祈っていたに違いありません。 私たちが死ぬ時まで 体と魂と共に天の栄光に上げられたマリアは、ずっと私たちのために祈り続けています。 マリアは 私たちの母ですから、御自分の子供たちを一人でも失われないように、絶えず神に願っています。 マリアのように 日常生活の出来事を通して、神に感謝する人は、遅かれ早かれ罪人のために祈る事、執り成す事にまで 聖霊によって導かれるでしょう。 更に、この人は赦しの秘蹟を受ける深い望みが 自分の内に上るのを強く感じるでしょう。 なぜなら神は、この人を 益々御自分の憐れみの神秘の内に引き寄せるからです。

    それに何かを加える必要があるでしょうか? 神は 私たちにすべてを与えて下さいました。イエスとマリアは 私たちにすべてを教えて下さいました。 ですから私たちが彼らの模範に従って、聖霊に導かれて、愛と信頼の内にすべてを与えましょう。 聖母の被昇天の祝日が、益々、日毎に、私たちを神に近よらせる助けとなりますように。

    特に、私たちの内にある天の国は、その喜びと賛美で光輝きますように 聖霊の息吹に私たちの心を大きく開きましょう! 更に、マリアが 一人ひとりを 豊かに祝福しますように。 確かに、私たちは 無限の愛で人々を見守っているマリアの愛する子供です。 ですから、聖なる清い供え物として私たちが キリストによって神に捧げられますように 信頼をもって母マリアに願いましょう。 アーメン。




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